私が心から尊敬する人について書きたい。
身内のことで恐縮だが、それは家内の祖父・前川喜作(まえかわ・きさく)という人物だ。私と家内が結婚した29年前(昭和54年)は84才でまだお元気だったが、昭和61年に亡くなってもう22年が経つ。喜作氏は、奈良県に吉野杉の山を持ち林業を営む素封家の家に生まれた。三男であったので家業を継ぐ必要がなく、将来の進路は自由が許された。上京し早稲田大学理工科に学び、そこで研究した技術を生かして産業用冷凍機製造の会社「前川製作所」を創業した。喜作氏が初代社長、二代目を家内の父が継ぎ、今は創業84年を迎え、国内64箇所、海外78箇所の事業所を置き、従業員約3,200名、年商1,500億円で、世界でも有数の技術を持ち業界シェアトップの経営をしている。

“モノづくり”の技術で戦後の発展を支え、日本の底力を示した経営者としての喜作氏には勿論敬意を表するが、私が感銘を受けるのは、事業で成功して得た利益、つまり儲けたお金をどう使ったかなのである。
会社経営が軌道に乗った喜作氏は、昭和31年に私財を投じて「財団法人和敬塾」という、地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮を作った。戦後、荒廃した日本を目の当たりにし、この国の将来を担う若者には「教育」が何より大事で、食住の心配なく思う存分勉強させてやりたい、そして単に「下宿屋」を提供するのではなく、人間として成長出来る「教育の場」を作りたいという壮大な理想を掲げて取り組んだのだ。
義父は最初これに大反対したという。「町工場の親父の手に負える分野ではない。荒唐無稽すぎる。」と。しかし喜作氏の決意は固く、揺らぐことのない信念であると義父も結局は納得し、ともに夢の実現のために力を尽くした。著名な教育者、哲学者、宗教家に何度も会い指導を仰いだが、誰からも「やめた方が良い。素人には無理。」と言われたそうだ。
しかし、その哲学と行動力のスケールの大きさには驚かされる。場所は都内文京区目白台、両隣は椿山荘フォーシーズンズホテルと田中角栄邸という一等地、そこに私財を投じて7千坪の土地を買い、宿舎を三棟建てて600名の学生を収容し、他にも図書館、食堂、講堂、浴場、ラウンジ、茶室、武道場、運動場等を設けた。塾内では文武各界の専門家による教養講座(いわゆる塾公認の部活動)、各種の塾生が独自に作るサークル活動、体育祭、演劇祭、そして各界の著名人による講演会等を定期的に催している。また各寮には信頼できる社会経験豊かな方を寮長として招き、日々の塾生の生活を責任を持って管理させている。喜作氏がその和敬塾の初代塾長、家内の父が二代目で現在の塾長であるが、折々、積極的に学生達と交流している。
現在、創立53年を数え、建物も2棟増設し全5棟、大学院生や海外からの留学生も含めて和敬塾では約550人の塾生が生活している。
和敬塾で学び卒業した卒塾生(和敬塾では「塾友」と呼ぶ)は、約4,500名にも及び各界で活躍をしている。外務省も含め、中央省庁内にも何人もOBがいるようだ。
喜作氏は自身が若き日に奈良から上京し、人生の師と尊敬する人々に出会い、哲学を学び、早稲田大学で学問を勉強し技術を身につけた。そのお蔭で今の自分がある、と「教育」の重要さ、有難さを身を以て実感し、感謝と恩返しの気持ちを具現化したものの一つが和敬塾だったのだと思う。
母校である早稲田大学への感謝の念も大きく、後輩の為に、と度々多額の資金援助をしていた。今は建て替えられたが、以前の大隈会館も、氏が個人で建てて大学に寄贈したものであった。数々の貢献に対して早稲田大学は、大学の発展に多大な寄与をした人に対する称号である「校賓」として顕彰したが、自分の名前や行為が公になることを好まない人であった。
ある塾友から聞いた話だが、「塾長に対する皆からの感謝の気持ちを表したい」と和敬塾の敷地内に喜作氏の銅像建立を申し出たが、案の定固辞されたので内緒で募金をして銅像を造ってしまい、既成事実を以てして再度建立を申し込むと渋々承諾され、「裏庭の焼却炉の辺りにでも建てるよう」に言われたが、強行突破で正面玄関前に無理矢理建ててしまったそうだ。
「金は天下の回りもの」と喜作氏はよく言われた。和敬塾の設立にも、早稲田大学への寄附にも、もちろん会社の金は全く使わず全て個人の金であった。また喜作氏も義父も和敬塾から一切の報酬を受け取らず、ただ青年育成のために私財と情熱を注ぎ込むのみである。
約50年前、和敬塾を作るために、当時の金額で4億円かかったそうだ。今の価格では土地代だけみても200億円位にはなろう。だが、私が強調したいのは、金額だけの問題ではない。喜作氏は常々「財は子孫に残さず。命も金も子供も、また身につけているものは一切神仏からの預かりもの。ゆえに、自分が生きている間に自分に託されたあらゆる物は自分の意志で社会にお返しする。」と言っていた。これを言葉通りに実践し、更には単にどこかへ寄附をするというのではなく、自ら行動し、未来を担う青年の育成に尽くした。正に身を以て範を示す教育者であり篤志家の鑑といえる。その上に、目立つことを嫌い「左手でやることを右手に知らせるな」とよく言っておられた。だから私が喜作氏のことをこうして著したことを天空で怒っておられるかも知れない。
しかし、今の日本を見渡してもマネーゲームに振り回され、カネカネと騒ぎ、金持ちが人生の勝者というような嘆かわしい拝金主義的風潮がある。今こそこういう高い志と生き様を持った人の存在を知ってもらいたいと思い私は紹介した。お祖父様にはお許し頂きたい。
余談だが、喜作氏は「財団法人前川報恩会」という基金を作り、公的機関の支援を受けるに受けられない社会的弱者の方への支援もしている。昭和40年代に、当時の金額で20億円という私財を基金へ提供した。
しかし、元来が「慈善は隠れてそっとやるもの」という考えで、あまりに密やかに活動していたので援助先の選定に困り、支援先の幅を広げるために一度だけ新聞社の取材を受けたことがあった。まだ家内と結婚する前のことだったが、その時の記事を読むと、「前川さんのしていることは個人がする仕事ではなく国がするべきことではないか。政治家についてどう思いますか?」との問いに、「あれはいけません。」と答えておられる。これには参った。
また、家内が成人し年頃になった時、祖父は周りのお世話好きの人から「どのような縁談を望まれるか?」と聞かれ、「こんな孫娘をもらって頂けるならどなた様でも有難いが、一つだけ言わせてもらえれば政治家だけはご遠慮したい。」と答えたそうだ。ところが、当時、民間企業に勤めていた私は縁あって家内と結婚し、その後国会議員となった。しかし祖父からはとても可愛がってもらった。今は初当選以来23年経つが、常に心の根底に喜作氏の存在があり、無意識の内に「祖父に恥じない仕事をしなければ」と自戒している。